自由

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と紀貫之が『土佐日記』の冒頭に書いたのはもう1000年以上も昔のこと。

なぜ女としたのかはさておき、昔話みたいな昔から男は女のふりして本書いたりしてるんだし、未来みたいな2020年に生きている女の私も男みたいに化粧とかせず繁華街行っちゃおバカやろと思って最近はすっぴんで買い物行ってる。

色々コンプレックスあるから出かける時は化粧をしてるっていう事実だけですっぴんよりずっと安心できるけど、化粧面倒だし落とすのはもっと面倒だから歯をくいしばってすっぴんで出かける。

とか言っておきながら、スーパー銭湯行くときはすっぴんで電車乗るのだって平気だし、それが正解とすら思ってるんだから買い物行くのだってすっぴんで当然平気なはずなんだよ。

それなのに化粧しない理由が違うだけで他人からは区別もつかないことに対して正解とか不正解とか安心とか不安とかを勝手に作り出す。

だって銭湯の帰りに買い物に行くのであれば化粧をしないといけないと思うけど、銭湯行く途中に買い物が挟んであれば絶対平気ですっぴんで買い物するんだよ私は。なんだそれ。本当に。目的と手段を理解できてないのかな?

化粧してないことは同じなのに…

別に知らない人間が化粧せずに歩いてたって誰も責めないし、そもそも見てない。見てたところですぐに忘れる。化粧はおろかこんなご時世なのにマスクしてたかどうかすら記憶しない。他人なんて全員のっぺらぼう。興味がない。なのにどうして見られていると思うのか。自意識過剰。無駄。

賢く潔くなりたい。

 

賢く潔くなりたい!